1.高齢者のうつ病について
高齢者のうつ病について 特に自殺予防と介護予防という視点から
はじめに,自殺予防と介護予防から見た,高齢者の「うつ病」について,お話させていただきたいと思います.
世界の自殺率マップ
これは世界保健機関が作成した世界の自殺率マップと呼ばれているものです.世界では年間に約100万人が自殺で死亡しており,自殺企図はその10倍から20倍,1000万人から2000万人と見積もられています.これを時間に換算しますと,40秒に1人が自殺で死亡し,3秒に1人が自殺を企てているという計算になります.このように,自殺は,今や世界規模でたいへん大きな社会問題になっているわけですが,しかし,この地図でも示されていますように,自殺率の高さには地域性があります.世界の中でも自殺率が高いのは,ヨーロッパ,東アジア,オセアニア,そしてキューバやスリランカなどで,日本もこうした国々の中に含まれています.
年間自殺死亡率の国際比較
それでは,世界の中で日本の自殺率の高さはどのあたりに位置しているかと申しますと,これは国別の年間の自殺死亡率を比較したものですが,2007年の日本の自殺死亡率は人口10万人に対して24.4人で,これは上位から数えると大体10番目ぐらいに位置しています.しかし,ここで注目すべきは,日本より上位にある国はすべて,リトアニア,ロシア,ベラルーシ,ラトビア,スロベニア,ウクライナ,ハンガリー,エストニア,カザフスタンと,かつては旧ソ連や東欧の共産圏にあった国々であり,20世紀の末に社会経済的な大変動を経験した地域ばかりだということです.それに対して,以前より自由主義陣営にあった国の中では,日本の自殺率は最も高く,アメリカの2倍,イギリスの3倍に及んでいることがわかります.
わが国の年間自殺死亡者数の推移
わが国の年間自殺死亡者数の推移を示したものですが,1998年に自殺者数が急増して30000人の大台を超え,その後も明らかな減少傾向は認められず,2006年にも男性が21419人,女性が8502人で,約30000人の自殺者数が続いているということを示したものです.このグラフを見ますと,1998年以降の自殺者数の急増は,主として男性の自殺者数の急増に起因するものであり,女性の自殺者数は戦後一貫して大きな変化が認められていないように思われます.
各国の性別自殺率の比較
しかし,これはWHOのデータに基づいて,横軸を男性の自殺率,縦軸を女性の自殺率として,各国の性別の自殺率を平面にプロットしたものですが,これによると,わが国の女性の自殺率は世界的にみると非常に高い位置にあることがお分かりいただけるかと思います.つまり,わが国の女性の自殺率は,最近高くなったというのではなく,戦後一貫して世界のトップクラスにあったということを示しています.
わが国の性別年齢階層別自殺率の推移
日本の自殺死亡率を性別年齢階級別に見ますと,男性では50台にピークがあり,75歳以降に再び急峻に高まりゆくスロープが見られ,女性では高齢になるに従い自殺率が高まるのがわかります.しかし,よく見てみると,75歳以降の後期高齢期の自殺率は男女ともに少しづつ減少してきており,特に女性ではその傾向が際立っているようです.これは2000年からの介護保険制度のスタートなど,高齢者に対する社会資源の充実と関係しているのかもしれません.では本当に高齢者の自殺は減っているのでしょうか.
わが国の性別年齢階層別自殺志望者数の推移
これは自殺率ではなく,自殺死亡者数を年齢階級別に見たもので,緑の棒グラフが1998年,オレンジの棒グラフが2007年を示しています.男性の高齢者の自殺死亡者の総数はこの10年間でむしろ増加していることがわかります.つまり,自殺率は低下しているように見えても,高齢者人口の急速な増加によって,自殺者数自体は減少していないということです.
60歳以上男性自殺既遂者の動機別分類
それでは,わが国の高齢者の自殺の背景にはどのような問題があるのでしょうか.これは警察庁の生活安全局で毎年報告している「自殺者の原因・動機別分類」を示したものです.これによると,60歳以上の男性自殺者では健康問題が半数以上を占め,経済生活問題,家庭問題がそれに続いています.
60歳以上女性自殺既遂者の動機別分類
一方,60歳以上の女性高齢者の自殺の動機を見ると,健康問題が占める割合はさらに大きくなり,これに続くのが家庭問題,経済生活問題になっています.
自殺の背景について
つまり,警察庁のデータによると,高齢者の自殺の背景には,健康問題,経済生活問題,家庭問題を中心に,ここに掲げられているような問題があるということになります.しかし,健康問題や経済生活問題や家庭問題を抱えている高齢者がみな自殺傾向をもつのかというと,決してそういうわけではありません.実際,治らない病気や重症の病気に罹っていても,自殺傾向をもつ方はそれほど多くはありません.では,どういう条件が重なると,健康問題や経済生活問題や家庭問題をもった高齢者に自殺の危険が現れるのでしょうか.ここで一つの仮説を立てることができます.
自殺の背景について(2)
それは,健康問題や経済生活問題や家庭問題と自殺との間には「こころの病気」が介在していて,「こころ病気」があると,ここに掲げられている問題が,急速に自殺に結びつきやすくなるのではないか,ということです.
自殺既遂中高齢者の心理学的剖検研究
この仮説を証明するための重要な研究があります.これは欧米で実施されている「心理学的剖検研究」と呼ばれている研究の結果をまとめたものです.これによりますと,55歳以上の自殺既遂者の7割以上に生前に「うつ病」が認められたという結果が報告されています.また,24%にアルコール依存症のような物質関連障害が認められています.つまり,高齢の自殺者には,健康問題や経済生活問題があったとしても,その大部分にこころの病気があって,特にその70%以上の方に「うつ病」が認められていた可能性があるということです.
自殺の背景について(3)
つまり,先ほどの模式図をさらに簡単に描けば,高齢者が,健康問題,経済生活問題,家庭問題などを抱え,うつ病になったときに,自殺の危険がとても高くなるということになります.
うつ病の有病率
うつ病は非常に頻度の高い病気です.うつ病の有病率について,一般人口集団では5%前後,地域在住高齢者や慢性身体疾患をもつ患者では10%前後,入院中の高齢患者,がん患者,脳卒中,心筋梗塞,パーキンソン病の患者では30%-40%台の数値が報告されています.
うつ病が高齢者の健康状態に及ぼす影響
しかも,これまでの疫学調査から,高齢者のうつ病は,自殺のみならず,心疾患や脳卒中などの体の病気のリスクファクターでもあり,両疾患の予後増悪因子であり,さらに転倒,骨粗鬆症,感染症,ADL低下,QOL低下,要介護状態への移行,医療費増大とも密接に関連し,一般身体疾患の死亡率を高めることが明らかにされております.さらに最近の研究では,アルツハイマー型認知症のリスクファクターであることも明らかにされており,特に若い頃からのうつ病エピソードの繰り返しが,アルツハイマー病の発症リスクを高めると報告されています.
地域に暮らすうつ病高齢者の予後
実際,地域に暮らすうつ病高齢者の予後は非常に悪いという結果が報告されています.これは,地域在住または一般医療機関を受診した60歳以上うつ病高齢者の縦断的研究のメタ解析の結果ですが,これらのうつ病高齢者は2年後には33%が改善しているが,33%は尚うつ状態であり,21%は死亡しているという結果が示されています.うつ病は本来治療可能な疾患であるのですが,これほどまでに予後が悪いのは何故でしょうか?それは,うつ病のことが一般によく知られていず,発見されず,したがって治療されないためであろう,と言われております.しかもこの死亡率の増加は,自殺によるものばかりではなく,うつ病のために身体疾患が悪化することにも深く関連していることが明らかにされています.つまり,高齢者のうつ病は,高齢者の自殺に深く関連しているばかりでなく,高齢者の体の病気による死亡率の増大にも深く関連しているということです.
まとめ 高齢者の自殺予防と介護予防には
したがって,高齢者の自殺予防と介護予防には,人々がうつ病についての知識をもつこと,うつ病の予防が可能な地域社会をつくること,がとても大切であるということがおわかりいただけたかと思います.